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超ショートドキュメンタリー「moment」

#拉致と言えなくて



拉致と言えなくて
~寺越さん母子の55年~


2 0 1 8 年 5 月 3 1 日 放 送

■日本海を臨み、北朝鮮で暮らす息子への思いを馳せる寺越友枝さん



「もし、あなたの子どもが突然いなくなったとしたら…」


ある日突然、息子と離れ離れになって
自由に会うことができなくなった母親がいます。


その息子がいる場所は、北朝鮮。


海を隔てた先にある、日本とは国交のない国です。



なぜ、息子は北朝鮮に?























■1963年 寺越武志さんが乗っていた漁船 無人の状態で発見


1963年5月。


石川県志賀町に住んでいた
寺越友枝さんの息子・武志さん(当時13歳)が
能登半島沖で消息を絶ちました。

2人の叔父の漁を手伝うため、船に乗り込み、沖に出ていたのです。




その翌日、
7キロ沖合で見つかったのは、
無人の船。



武志さんらは海に落ちて死んだと思われていましたが、
それから24年後。


北朝鮮で生きていることが分かりました。











■1987年 24年ぶりに再会を果たす



状況から見て、
明らかに「拉致」でしたが、
北朝鮮側は「救助だった」と説明。



その当時は、
まだ “ 拉致問題 ” という概念はなく、
受け入れるしかありませんでした。







そして、
24年ぶりに再会を果たせたものの、
武志さんは金英浩(キム・ヨンホ)と名乗り、
北朝鮮の人間として生きていました。



さらに
現地の女性と結婚して
子どもがいたこともあり、
日本に連れ戻すことはできませんでした。





■1997年 拉致被害者家族会とともに活動



「息子にふるさとの土を踏ませたい」


北朝鮮の拉致疑惑が
大きく報じられるようになった1997年。


友枝さんは、
拉致被害者家族会の活動に参加し、
武志さんの帰国などを求めました。





しかし…


「お母さん、家族会にいたら 俺と会われんようになるよ」


そう告げられた友枝さんは、
家族会とは徐々に距離を置き、
「拉致」という言葉を封印したのです。


息子の身の安全を守るために…





■武志さんに会うため、訪朝を繰り返した
(寺越さん提供)



友枝さんは家族会から離れ、
自ら武志さんに会いに行く道を選びました。


国からの援助はなく、
旅費はパートを掛け持ちするなどして
ほとんど自分で工面しました。




北朝鮮の武志さん一家の暮らしは、
決して楽ではないといい、
友枝さんは訪朝のたびに衣類や食料などを届けました。



訪朝の回数が増えるにつれ、
同情的な見方をする人は離れていきましたが
空白の24年間を埋めようと必死でした。






■2018年 現時点で最後の訪朝


日本政府は
武志さんについて
「拉致被害者」と認定していません。


「拉致の可能性を排除できない失踪者」
というのが公式見解で、
事実上、置き去りにされています。



一方、友枝さんは
最後に北朝鮮を訪れた2018年春の時点で
87歳になっていました。


体力的にも、金銭的にも苦しい状況です。








「会いに来るのはこれが最後」

武志さんにそう告げるつもりでしたが、

結局、
その言葉を口にすることはできませんでした。












核やミサイルの問題など…日朝関係は冷え込んだまま。

拉致問題も関係者の高齢化が進み、風化しつつあります。





拉致と言えなくて…




沈黙するというやり方で息子を守ってきた友枝さん。

生きて会えた喜びはありましたが、数多くの苦しみを味わいました。





そして、自由に会えない―


生き別れの苦しみは、今も続いています。







 











受賞歴

2018年度日本民間放送連盟賞【テレビ教養部門】最優秀賞




 

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