5月11日(日)7:30~8:00
シリーズ・百万石を支えた男たち②
『キリシタン大名 高山右近』
◆◆◆ふるさとの歴史ロマンを探る30分◆◆◆
今回は「築城の名手」としても知られた高山右近です。
大坂・高槻城の城主がなぜ、加賀藩と関わりを持つようになったのでしょうか。
◎百万石の城下町
1599(慶長4)、加賀藩祖・前田利家が逝去し、家督は利長に継がれます。
利長は父の遺言に逆らい、大坂から加賀へ帰国。
この動きは「徳川家康を狙うため」ではないかという嫌疑がかけられます。
事実無根を訴える利長は、母・芳春院(ほうしゅんいん・お松の方)を
人質として江戸に向かわせることで、加賀藩最大の危機を乗り越えましたが、
実はその一方で、万一に備え、城の整備を行っていました。
この時、金沢城と城下町の整備に尽力したのが高山右近です。
加賀の国の大改造は、利長にとっても急務。
白羽の矢が立ったのが、「伴天連追放令」で大名の地位を捨て、
信仰の道を選んだ右近でした。
城と街を防御するための「惣構(そうがまえ)」は、内と外に2本。
その内側は右近が手がけたもので、金沢で一戦交える覚悟は
当時の利長も考えていたようです。
しかし、軍事目的の惣構は結果的に金沢の城下町を形成する
区画の基本ラインとしての役割を果たしていて、
「築城の名手」と謳われた右近が、
今日の城下町の基礎を創り上げた…といっても大げさではないでしょう。
◎深まるナゾ…右近と能登
さて、場面は変わり能登半島・七尾市の山の寺寺院群。
ここに「隠れキリシタンの寺」と言い伝えられる寺があると聞いて、
佐野アナが訪ねました。本行寺(ほんぎょうじ)です。
とかくナゾの多い高山右近。
ご住職の小崎さんに見せていただいたのは小さな仏像です。
手を合わせた高さ15センチほどの、何の変哲もない仏像ですが、
実はある仕掛けが隠されています。(放送を見てのお楽しみ)
右近が残していった所有物や、ゆかりの品、
そして極めつけは右近の修道所跡地でキリシタンが密かに行っていたという
「アニマー祭」という祭りの料理です。
キリストの聖なる血を表しているという「大唐米(だいとうまい)」や
イモを潰して団子にした「神団子汁(じんだごじる)」などなど。
この料理の材料や作り方は、代々、住職の家族だけに伝えれたのだとか…
(どんなメニューか…こちらも放送でのお楽しみです)
また右近は、茶をたしなむ文化人としての側面もあります。
「お茶はあらゆる宗教の実践の場である」と
師匠の千利休が説いていたことから、右近の真摯な態度も、
茶の作法や考えによって深まったといっていいでしょう。
現在、殉愛キリスト教会にある茶室・右近庵でも、
定期的に茶会が開かれ、右近ゆかりの品を見ることができます。
「千利休の一番弟子」でもあり、「築城の名手」でもある右近。
金沢で過ごした26年で残していったものとは何なのか…
その足取りを辿ります。
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【OA】日曜 午前7:00~7:30 ≫≫≫「ぶんぶんセブン」「弦哲也の人生夢あり歌もあり」と週替りで放送
【リポーター】平見夕紀