4月18日(日)7:30~8:00
ふるさと探訪シリーズ・わが街こころの風景①
『金沢城・水辺めぐり ~金沢市~』
◆◆◆ふるさとの歴史ロマンを探る30分◆◆◆
県内19の市町の美しくもあり、風土を物語る風景を紹介する
わが街こころの風景。去年に続き、ことしも新たなラインナップでお届けします。
新年度のシリーズ第1回は「金沢市」です。
◎歴史都市・金沢の象徴
この春、金沢城に新たなシンボルが仲間入りしました。
かつて参勤交代の行列も通った「河北門」と、外堀の1つ、「いもり堀」です。
金沢城はもともと加賀一向一揆の精神的、政治的中心となった
金沢御堂(尾山御堂)が置かれていましたが、
柴田勝家や前田利家ら織田信長の軍勢によって攻め落とされ、
後に佐久間盛政が戦国城郭へと改修していきます。
1583年(天正11)、前田利家が七尾・小丸山城から金沢に入城し、
いよいよ本格的な城の整備が始まります。
はじめは「尾山城」とも呼ばれていましたが、「金沢城」という名称は
2代藩主・利長の頃に定着したようです。
この金沢城。前田のお殿様の後は陸軍、金沢大学と家主を変え、
平成8年に石川県が取得して金沢城公園となります。
平成13年には橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓などが整備され、
美しい城郭を見せています。
金沢城調査研究所の正見泰(しょうけんひろし)さんによると、
「鉛瓦」や「唐破風の出窓型石落とし」、「ナマコ壁」、
赤・青2色が使われた「戸室石の櫓台」などなど、
まさに『カラーコーディネート』されたような美しさで、
あまり注目されていませんが、漆を焼き付けた鉄板を用いた隅柱が、
城の輪郭をクッキリと見せているのが精かんで美しいと話してくれました。
さて、新たに復元された「河北門」と「いもり堀」ですが、
「河北門」はもともと城の正門にあたり、重要な入口でした。
大きな梁が加賀百万石の隆盛を物語っています。
「いもり堀」は部分的な復元で、実際には倍ほどの幅があったそうです。
金沢城の外堀は大手堀が残っているだけで、
白鳥堀や百間堀は明治以後、埋められてしまいました。
そういう意味でも、藩政時代の風景に思いを馳せてみるのもいいですね。
◎前田vs徳川の緊張を物語る
金沢城の堀や兼六園の美しい曲水などを潤しているのは、
3代藩主・利常が板屋兵四郎に命じて造らせた辰巳用水です。
この辰巳用水は、城をぐるりと取り囲んでいた「惣構」にも注がれました。
この「惣構」は利家が逝去した後、利長が徳川家から
謀反の疑いをかけられ、緊張状態だったことから整備されました。
現在、用水の一部分になっていたり、痕跡があったりと、
その痕跡は市内のあちこちに残っています。
「惣構」は深さ5mほどの堀と高さ5mほど盛られた土居で構成され、
この春、主計町に当時の姿を復元した惣構がお目見えしています。
また橋場町の交差点近く、枯木橋の橋詰には、
惣構でも石垣を積み上げられた特徴的なもので、
こちらも復元整備が完了しています。
金沢市立玉川図書館近世史料館の小西昌志さんは「惣構」について、
前田家と徳川家の関係が安定するまでの、
金沢の歴史・文化を知るきっかけにしてもらいたいと話します。
「惣構」は自然地形を利用していたので、街中の段差などが
実は惣構の跡だった…という場所がたくさんあります。
これらは大切な歴史遺産でもあります。
ぜひ、金沢の街を歴史探訪してみてください。
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【リポーター】平見夕紀